第3話「静寂の代償」
結局、僕を迎えに来たのは父と母の二人だった。
店に入るなり、父は僕の姿を確認し、大きく息を吐いた。
「健人……無事だったか」
「うん。大丈夫だよ」
父は僕の肩に手を置き、顔をじっと見つめた。
まるで、本当に怪我をしていないのか確かめているようだった。
母も隣で安堵の表情を浮かべていた。
それから二人は、店主と奥さんに深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。息子が大変お世話になりまして」
「いやいや、そんなに頭を下げないでください」
店主は慌てたように手を振った。
「充電器を貸して、軽いものを作っただけですから」
「それでも、本当に助かりました」
母が言った。
「主人も私も、事故のニュースを見てから生きた心地がしなかったんです」
父は何度もうなずいた。
「そうなんです。もし息子が、こちらに寄らずに帰ろうとしていたら……」
そこで父は言葉を止めた。
一瞬、店内が静かになった。
「あるいは、もう一本遅いバスに乗ればいいと思っていたら……」
父は僕を見た。
「今日の事故に巻き込まれていたかもしれません」
その言葉に、僕は何も答えられなかった。
ほんの少し、行動が違っていたら。
僕は今、ここに立っていなかったかもしれない。
「ですから、本当に……このお店があってよかったと思っています」
父は再び店主に頭を下げた。
「息子がここで休ませてもらえた。それだけで、私たちにとっては十分すぎるほどありがたいことなんです」
店主はしばらく父の顔を見つめ、それから静かに笑った。
「……そうですか」
「ええ。本当にありがとうございました」
「いや、こちらこそ。健人くんが無事で何よりですよ」
父はようやく、少しだけ笑顔を見せた。
その様子を見ていた奥さんも、穏やかにうなずいていた。
けれど僕は、そのとき気づかなかった。
店主が父の言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ複雑そうな顔をしていたことに。
そして、この店がこれまで何を抱えてきたのかということにも。
帰り支度をしている間、父から事故について聞かされた。
現場は想像を絶する状況だったらしい。
事故に遭ったのはバスだけではなかった。
周囲を走っていた複数の車両も巻き込まれ、バスの乗客以外にも犠牲者が出ていたという。
テレビで見た映像が脳裏によみがえる。
もし、あのとき。
僕がいつもどおりバスに乗っていたら。
そう考えた途端、背筋に冷たいものが走った。
「健人」
父の声で我に返る。
「次からは、少しは現金を持ち歩きなさい」
「……うん」
「体調が悪かったことは仕方ない。だが、財布の中身すら把握していなかったのは、だらしないぞ」
父は真剣な表情だった。
「何が起こるかわからないんだ。今日だって、こうして親切な方に助けてもらえたからよかったものの……」
「もう、そのくらいにしてあげて」
母が横から言った。
「健人だって十分怖い思いをしたんだから」
「いや、だからこそだ」
父は譲らなかった。
「今後はこういうことがないように、ちゃんと備えておかないといけない」
「……わかった。気をつけるよ」
僕がそう答えると、父はようやく表情を緩めた。
その様子を見ていた店主の奥さんが、ふっと笑った。
「優しそうなお父さんだけど、言うときはしっかり言う人なんですね」
その声は穏やかだった。
だが、続く言葉は隣に立っていた夫に向けられていた。
「誰かさんとは違って」
「……けっ、うるせえな」
店主がぼそりと返した。
母が小さく笑う。
つられて僕も笑った。
ほんの少しだけ、店内の空気が和らいだ。
僕たちは改めて礼を述べ、店を後にした。
振り返ると、店主が入り口で手を振っていた。
奥さんも隣で静かに頭を下げていた。
その姿を見て、僕は思った。
いつかまた、この店に来よう。
今度はちゃんと、お金を持って。
客のいなくなった店内には、食器の触れ合う音だけが響いていた。
奥さんは、健人が使った皿を流しに運び、水道の蛇口をひねった。
冷たい水が指先を流れていく。
「……まあ、これで静かになるわね」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
夫は奥の部屋に引っ込んでいる。
返事はなかった。
「亡くなった学生さんたちは気の毒だけど……」
そこで言葉を切った。
スポンジで皿をこする。
洗剤の泡が、食べ残しを包み込んで流れていった。
「これで、ようやく……」
彼女の脳裏に、かつての店の光景が浮かんだ。
最初は、悪い話ではないと思っていた。
学校の生徒たちに、安心して休める場所を提供する。
地域の店と学校が協力し、生徒の居場所を作る。
そのための制度があるのだと説明された。
学校の担当者は何度も店に足を運んできた。
「どうか、ご協力いただけませんでしょうか」
「地域の子供たちのためにも、ぜひ」
そのたびに夫は困った顔をしていた。
制度を利用した店の評判は、以前から耳に入っていた。
近所の商店主たちも、誰一人として積極的ではなかった。
それには理由があった。
過去にこの制度を引き受けた店では、学生同士のトラブルや迷惑行為が相次ぎ、一般客が次第に離れていった。
売り上げは落ち込み、赤字が続き、ついには閉店に追い込まれた店まであったという。
だから、最初は断るつもりだった。
しかし、学校側は何度も頼みに来た。
その熱意に押される形で、夫はとうとう引き受けてしまった。
そして、案の定だった。
「おい、こっち来いよ!」
「ぎゃはははは!」
店内に響く騒ぎ声。
テーブルを占領する学生たち。
注文するのは飲み物一杯だけ。
それすら頼まず、長時間居座る者もいた。
注意をしても、その場だけ静かになる。
しばらくすれば、また元どおりだった。
「ちょっと、もう少し静かにしてもらえる?」
彼女が声をかけたときも、返ってきたのは面倒くさそうな視線だった。
「えー、別によくね?」
「ここ、休憩していい店なんでしょ?」
そう言って笑う。
やがて、一般客の姿が減っていった。
以前は昼どきになれば、近所の人たちが食事を楽しみに来てくれていた。
常連客との世間話。
忙しくても、充実していた時間。
それらが少しずつ失われていった。
「学生がうるさいから、あそこには行きたくない」
そんな評判まで立ってしまった。
店の前を通り過ぎる、かつての常連客。
中をのぞいては、何も言わずに去っていく人々。
その姿を、彼女は何度も見ていた。
学校にも苦情を入れた。
一度や二度ではない。
しかし、返ってくるのは似たような言葉ばかりだった。
「こちらでも指導はしておりますので」
「学校としても対応は続けております」
そして最後には、制度に伴う補助金の話になる。
補助金があるのだから、多少の負担は仕方がない。
まるで、そう言われているようだった。
だが、いくら補助金をもらったところで、離れてしまった客が戻ってくるわけではない。
失った評判が回復するわけでもない。
学校が欲しかったのは、地域と連携して生徒の休憩場所を確保したという実績。
少なくとも、彼女にはそう見えた。
引き受けてもらうまでは、あれほど頭を下げていたのに。
いざ始まれば、店の苦労など知らぬ顔だった。
やがて、夫婦は店を畳むことまで考えるようになった。
だが、彼女にはどうしても納得できなかった。
自分たちが長年守ってきた店が、こんな形で終わるなんて。
どうして、あの連中のために。
どうして、私たちが。
「……ふふ」
皿を洗っていた彼女の口元から、突然、小さな笑いが漏れた。
「いい気味だわ」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
ニュースで事故のことを聞いたときは、確かに恐ろしいと思った。
犠牲者が出たことも痛ましい。
その気持ちに嘘はなかった。
けれど。
もう、あの騒がしい連中が店に来ることはない。
飲み物一杯で何時間も居座り、大声を上げ、ほかの客を追い払っていた学生たち。
彼らがいなくなる。
そう思うと、不思議なほど心が軽くなった。
「……もう、ここはあんたたちの休憩所じゃないのよ」
奥の部屋から夫の声が聞こえた。
「おい、何か言ったか?」
「何でもないわよ」
彼女は素早く返した。
そして、洗い終えた皿を水切りかごに置いた。
健人が使った皿だった。
「あの子は……いい子だったわね」
静かな声でつぶやく。
あの子に対しても、最初は少し冷たい態度を取ってしまった。
制服姿を見ただけで、これまでの学生たちと同じだと思い込んでいたのだ。
けれど、話してみれば違った。
礼儀正しく、控えめで、何かをしてもらうたびに頭を下げる。
父親の姿を見て、なるほどと思った。
「ああいうお父さんに育てられたからかしら……」
夫が健人によくしてやったことは、学校にも、両親にも伝わったはずだ。
少なくとも、あの子だけは、ここで受けた親切を忘れないだろう。
彼女は蛇口を閉めた。
水音が止まる。
店内が、しんと静まり返った。
以前なら、この時間にも学生たちの笑い声が響いていた。
椅子を引きずる音。
机を叩く音。
人を呼ぶ大声。
もう、聞こえない。
彼女はゆっくりと店内を見渡した。
失った客は戻らないかもしれない。
店の経営が立ち直る保証もない。
このまま店を畳むことになるかもしれない。
それでも。
「……静かね」
彼女は微笑んだ。
自分でも、なぜこんなに気分がいいのかわからなかった。
窓の向こうには、いつもと変わらない街並みが広がっていた。
あれほど多くの人間が亡くなったというのに、外の景色は何一つ変わっていない。
彼女は最後にもう一度、誰もいない客席を見つめた。
そして、小さく息を吐いた。
ようやく、静かになった。
第3話 終
