THORNBORN 1

THORNBORN(ソーンボーン)

第1話 帰りのバスに乗れない理由

最近は、調子がよかったはずなのに。

「……うっ」

突然、胃の奥から不快な感覚がこみ上げてきた。

思わず足を止める。

気持ちが悪い。

学校を出たときには、何ともなかった。それなのに、バス停へ向かう途中から、少しずつ体が重くなってきた。

このままバスに乗って大丈夫だろうか。

考えただけで、また吐き気が強くなった。

「……どこかで休もう」

辺りを見回すと、通りの向こうに小さな喫茶店が見えた。

僕はゆっくりと歩き出し、その店の扉を開けた。

カラン、と小さなベルが鳴る。

店内には、落ち着いた照明が灯っていた。

窓際の席に腰を下ろし、冷たい飲み物を注文する。

しばらくして運ばれてきたグラスには、細かな水滴が浮かんでいた。

一口飲む。

冷たさが喉を通り抜けていく。

「……ふぅ」

少しずつ、気分が落ち着いてきた。

よかった。

どうやら、しばらく休めば大丈夫そうだ。

けれど、帰りのバスに乗ることを考えると、まだ少し不安が残る。

無理をして、途中でまた具合が悪くなったら困る。

「……父さんに迎えに来てもらおう」

そう決めて、鞄からスマートフォンを取り出した。

画面に触れる。

……反応がない。

「あれ?」

もう一度、指で画面をなぞる。

それでも何も起こらなかった。

電源ボタンを押してみる。

長押ししてみる。

「……なんで?」

画面は黒いままだった。

学校を出るときには、充電が十分に残っていた。

この店に入ったときだって、確か六十パーセントほどあったはずだ。

充電切れとは考えにくい。

「故障……したのか?」

嫌な予感がした。

そして、次の瞬間。

もっと重大な問題に気づいてしまった。

「……待てよ」

僕はテーブルの上のグラスを見つめた。

まだ、会計を済ませていない。

支払いは、いつものようにスマートフォンの電子マネーでするつもりだった。

「……えっ?」

慌てて財布を取り出す。

小銭入れを開き、紙幣の入る場所も確認した。

ない。

もう一度確認する。

……やっぱり、ない。

「うそだろ……」

現金が一円も入っていなかった。

( 👁️˂˃👁️ )‼️

「最悪だぁ……!」

思わず小さく声が漏れた。

どうしよう。

スマートフォンは動かない。

父さんにも連絡できない。

おまけに、飲み物の代金さえ払えない。

何度も画面を操作してみたが、結果は変わらなかった。

しばらく迷った末、僕は店員さんに声をかけた。

「あの……すみません」

「はい、どうしたの?」

「あの、実は……スマートフォンが突然使えなくなってしまって……」

言葉がうまく出てこない。

「電子マネーで支払うつもりだったんですけど、財布にも現金が入っていなくて……」

怒られるだろうか。

無銭飲食だと思われたらどうしよう。

そんな考えばかりが頭に浮かんだ。

ところが、店員さんは僕の話を最後まで聞くと、少し考え込んだ。

そして、穏やかな声で言った。

「……しょうがないねぇ」

「えっ?」

「充電コードを貸してあげるよ。少し充電してみな」

思わず顔を上げた。

「い、いいんですか?」

「ああ。ただし、ひとつ約束してほしいんだ」

店員さんは少し声を落とした。

「学校の友達や家族には、ここの店で充電コードを借りたことを言わないでおくれ」

「……はい?」

「誰にでも貸してくれる店だって噂になったら困るからね。うちは基本的に、充電だけのお客さんはお断りしているんだよ」

なるほど。

確かに、そんな噂が広まってしまったら、お店に迷惑をかけてしまうかもしれない。

「それとね」

店員さんは店内を見回した。

「今は君一人だからいいけど、ほかのお客さんが来たら、端の席に移動しておくれ。あんまり目立たないようにね」

「はい! ありがとうございます!」

僕は思わず頭を下げた。

よかった……。

本当に、よかった。

正直に話してよかった。

「それじゃ、充電コードを取ってくるね!」

そう言い残して、店員さんは奥へと向かっていった。

僕はようやく肩の力を抜いた。

さっきまで、どうすればいいのかわからなかった。

それなのに、見ず知らずの僕を助けてくれる人がいる。

なんだか、胸の奥が温かくなった。

目の前のグラスには、飲み物が少しだけ残っていた。

僕はそれを手に取り、最後の一口を飲み干した。

冷たい飲み物が、今度はずいぶん美味しく感じられた。

( ˊ̱˂˃ˋ̱ )🍹

……そのときだった。

店の奥から、女性の声が聞こえてきた。

「あんた、また貸すの?」

思わず動きを止める。

「あんた、また貸すの? この前だって充電だけしに来た学生が何人もいたじゃない! うちは充電屋じゃないのよ!」

( 👁️˂˃👁️ )💢

続いて、店主の荒っぽい声が響いた。

「うるせえな! 引っ込んでろ!」

僕は、手にしていたグラスをゆっくりとテーブルに戻した。

……あれ?

もしかして、僕のことだろうか。

店主は、僕を助けようとしてくれた。

でも、そのせいで奥の人と揉めている。

僕がここに来なければ、こんなことにはならなかったのだろうか。

せっかく親切にしてくれたのに。

また、誰かに迷惑をかけてしまった。

( ´・ω・)……

さっきまで感じていた安心感が、少しずつ薄れていく。

テーブルの上には、空になったグラス。

その底で、小さな氷が音を立てた。

……美味しかったはずなのに。

飲み物の後味が、妙に重く感じられた。