第四話『見つめる者』
チャッピー改稿版
眠れなかった。
昨日の出来事が、どうしても頭から離れない。
学校も大変なことになっているらしい。
マスコミが押しかけ、先生たちも対応に追われているという。
「……めんどくさ」
思わず口に出してしまった。
両親も、今日は学校を休んだ方がいいと言ってくれた。
もともと体が丈夫ではない僕にとって、ありがたい話だった。
両親が仕事に出かけると、ようやく家の中が静かになった。
僕はアイスコーヒーを用意し、椅子に腰を下ろす。
「はぁ……優雅だ」
学校に行かなくていい。
それだけで、少し気分がよかった。
さて、YouTubeでも見ようか。
リモコンをテレビへ向ける。
反応がない。
「あれ? 電池切れかな」
何度か押すと、ようやく画面がついた。
「まあ、あとで替えればいいか」
そのときだった。
『昨日、市内で発生した交通事故について、新たな情報が入りました』
思わず画面を見つめた。
僕の住んでいる地域だった。
猛スピードで走ってきた車が道路脇へ突っ込み、土木作業員の男性が死亡。さらに複数の人間が巻き込まれ、死傷者が出ているという。
事故現場では火災も発生していた。
『なお、現場にはブレーキをかけた痕跡が確認されておらず――』
「……また?」
嫌な予感がした。
バスの事故と似ている。
もちろん、ただの偶然かもしれない。
そう思おうとした。
だが、そのときだった。
画面の隅に、見覚えのある女性が立っていた。
「……あ」
あの人だ。
また、あの人だ。
女性は笑っていた。
何がおかしいのだろう。
人が死んでいるのに。
それに、どうして僕の方を見ている?
「……何がそんなに面白いんだよ」
気味が悪い。
しかし、不思議と恐怖はそれほど感じなかった。
それよりも腹が立っていた。
「何か知ってるんだろう!」
思わずテレビに両手を伸ばす。
「答えろよ!」
その瞬間、何かが動いた。
細い植物のようなものが、僕の腕から画面へ伸びていく。
しかし、そのことに気づく余裕はなかった。
テレビの向こうで、女性が目を見開いた。
笑みが消える。
そして両手を上げ、何かから身を守るように後ずさった。
次の瞬間、姿が消えた。
「……まただ」
周囲の映像が動き始めた。
そうだ。
あのとき、確かに映像が止まっていた。
僕とあの女性だけが、互いを見つめていたのだ。
単なるテレビの演出ではない。
一体、何が起きている?
わからない。
だが、もう無視するわけにはいかなかった。
今回の事故は、どこか遠くの町で起きたものではない。
僕の住んでいる地域だ。
父さんも母さんも、毎日車を使っている。
もし、あの女性が事故に関係しているなら。
もし、次に両親が巻き込まれたら。
そこまで考えて、僕は首を振った。
考えすぎだ。
そう信じたかった。
夕方、両親が帰宅した。
「ただいま」
「おかえり」
普段どおりの会話だった。
「飯作ったら呼ぶから、降りてこいよ」
「うん」
僕は自分の部屋へ戻った。
机に向かい、ノートを開く。
さて、どうする。
あの女性は怪しい。
間違いなく怪しい。
しかし、怪しいだけだ。
笑っていたからといって、事故を起こした証拠にはならない。
そもそも警察に何を言えばいい?
テレビに映った女性が僕を見て笑っていました。
……馬鹿馬鹿しい。
「せめて何か、きっかけがあれば……」
そう呟いたときだった。
手元のコーヒーを倒してしまった。
「あっ!」
茶色い液体がノートに染み込んでいく。
「最悪……買ったばかりなのに」
安いノートとはいえ、買ったばかりだ。
とりあえず乾かしてみた。
多少波打っているが、書くことはできそうだった。
ボールペンを握る。
その瞬間。
頭の中に、何かが流れ込んできた。
「……え?」
勝手に手が動く。
ノートに線が引かれた。
何本も、何本も。
やがて、それは一枚の絵になった。
子供がいた。
その横に、女性がいた。
女性の首は不自然な方向へ曲がっていた。
それでも、子供を見つめて笑っていた。
周囲には鉄の破片が散らばっている。
見覚えがあった。
車の事故で生じる破片だ。
あの事故で、嫌というほど見たものだった。
「……っ!」
僕は紙を破いた。
もう一度。
さらにもう一度。
何を描いてしまったのか。
理解したくなかった。
こんなもの、この世に残してはいけない。
夢中で紙を引き裂いていると、ふと手元に違和感を覚えた。
「……なんだ、これ」
両手に植物が絡みついていた。
鋭い棘。
茨だった。
紙を引き裂いていたのは、僕の指だけではなかった。
茨の棘が、紙を細かく切り裂いていたのだ。
だが、痛みはない。
僕の手には傷ひとつなかった。
「……お前、何なんだよ」
茨は答えない。
ただ、ゆっくりと動いている。
僕の意思とは関係なく。
「なぜ、僕にあれを見せた?」
すると、茨がボールペンを握った。
また絵を描き始める。
同じ絵だった。
「……おい」
もう一枚。
さらにもう一枚。
「やめろって!」
しかし止まらない。
僕の手を使うことすらやめてしまった。
自分でペンを握り、同じ絵を描き続けている。
何がしたいんだ。
悪意がないとは言い切れない。
それでも、何かを伝えようとしているように見えた。
「……どこかにあるのか?」
茨が止まった。
「その絵が。どこかに実物があるのか?」
すると今度は、机の上のスマートフォンへ伸びていった。
「おい、今度は何だよ!」
勝手に持ち上げる。
画面に触れる。
そして、暗証番号を入力した。
「……は?」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
「なんで知ってるんだよ!」
茨は無視した。
カメラを起動する。
そして突然、写真を撮り始めた。
パシャッ。
強いフラッシュが光る。
「おい! 勝手に――」
その瞬間、思い出した。
フラッシュ。
カメラ。
報道関係者。
「……まさか」
以前の事故現場にも、大勢のカメラマンがいた。
事故現場を撮影すること自体は悪いことではない。
正確な情報を伝えるのも仕事だ。
彼らだって、被害者を傷つけたくて撮影しているわけではない。
だが。
偶然、映ってしまうことはある。
あの日の映像にも、確かに何かが映っていた。
画面の右端。
ほんの一瞬だった。
〇・一秒ほどだろうか。
それでも、目に焼きつくには十分だった。
僕は思わず口元を押さえた。
映像は止められる。
拡大もできる。
切り抜くことだってできる。
誰かが、あの瞬間を保存していたら?
あの女性と子供の姿が、写真として残されていたら?
「……そんなこと、ありえない」
そう信じたい。
でも、絶対にないとは言い切れない。
「お前……それを言いたかったのか?」
茨は再び動き始めた。
今度は僕の指に絡みつき、ボールペンを握らせる。
また何かが頭の中へ流れ込んできた。
あの女性だった。
顔が描かれていく。
しかし途中から、ペン先が激しく動き始めた。
顔を塗りつぶす。
何度も。
何度も。
目だけを残して。
あの目だった。
僕を見ていた、あの目。
「……わかってる」
僕は小さく呟いた。
「勝手に情報を見たのは僕だ」
茨を睨みつける。
「でも、これ以上お前にも勝手なことはさせない」
紙を破った。
今度は落ち着いて。
スマートフォンの写真も削除した。
そして床に散らばった紙を集める。
ハサミを取り出し、一枚ずつ細かく切っていった。
面倒くさい。
本当に面倒くさい。
だが、こんな絵を誰かに見られるわけにはいかなかった。
それが事故で亡くなった人たちの姿なら、なおさらだ。
「……シュレッダーでも買おうかな」
茨は何も答えなかった。
僕は黙って紙を切り続けた。
雨が上がっていた。
女は、足元の水たまりを見つめていた。
「……驚いた」
あの少年。
まさか、こちらにまで干渉できるとは。
だが。
「お前だけじゃないのよ」
茨が伸びる。
先端が水面に触れた。
そこへ精神エネルギーを流し込む。
波紋が広がり、やがて一つの光景が映し出された。
あの少年だった。
喫茶店にいた子供。
こちらを睨み、何かを問い詰めようとしていた少年だ。
「……邪魔はされたくないの」
少年は両親と食事をしていた。
父親が笑っている。
母親も笑っている。
少年も楽しそうだった。
その光景を見ているうちに、女の脳裏に別の姿が浮かんだ。
娘だった。
食卓に、自分の娘が座っていた。
あの少年の家族でもない。
そこにいるはずがない。
それでも娘は笑っていた。
楽しそうに。
「……違う」
女は念じた。
娘の姿が消える。
「私はもう……そこには立てない」
水面から目を離そうとした。
もう見るのはやめよう。
そう思った。
だが、できなかった。
あの少年が、娘のことを知ってしまった。
そう考えると、怒りが込み上げてきた。
「……お前に何がわかる」
再び水面を見つめる。
両親が笑っている。
何の不安もなさそうに。
「お前の両親を殺せば……」
女は呟いた。
「私の気持ちも、少しはわかるかしら」
父親の顔を見る。
次に母親。
もっと詳しく調べようとした。
そのときだった。
少年が、こちらを見た。
「あら」
女は笑った。
気づいたのか。
今度はどんな顔をする?
驚くだろうか。
泣くだろうか。
それとも、また正義感を振りかざして私を責めるのだろうか。
楽しみだった。
少年の表情を見るまでは。
「…………え?」
女の笑みが消えた。
少年は笑っていた。
両親と食事をしながら。
口元には薄い笑みを浮かべている。
だが、目が違った。
まるで生気がない。
瞳孔が開き、こちらをじっと見つめている。
瞬きもしない。
「……なんだ?」
女は顔を近づけた。
少年は変わらず笑っていた。
両親は気づいていない。
楽しそうに食事を続けている。
女の手が震え始めた。
おかしい。
さっきまで、あれほど怒っていたではないか。
事故で人が死んだことに腹を立て、私に詰め寄ってきた子供だったはずだ。
なのに。
「……こいつも、私と同じなのか?」
いや。
違う。
あの少年は私を止めようとしていた。
そうではないのか?
なら、なぜ笑っている。
なぜ、あんな目で私を見る?
水面の向こうで、少年は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
その目を見た瞬間、女は理解できない恐怖に襲われた。
自分を見つめているのは、本当にあの少年なのか。
それとも。
「……私は」
声が震えた。
「何と出会ってしまったんだ……?」
水面が、かすかに揺れた。
最後に見えた少年の目。
それはまるで――
獲物を見つけた、捕食者の目だった。
――終わり。

