ある醜い顔の女が、役所へ訴え出た。
「……恥ずかしめを受けました。どうか、犯人を探してください」
静まり返るはずの窓口で、くすくすと笑いが漏れた。
やがてそれは隠そうともせず、露骨な嘲笑へと変わっていく。
「その顔で、か?」
女は一瞬、言葉を失った。
それでも、震える手で袋を差し出す。
「申請に必要な費用は……持ってきています。どうか――」
誰一人、手を伸ばそうとはしなかった。
ただ、笑い声だけが重なっていく。
そのときだった。
「――何の騒ぎだ」
低く通る声が、場を裂いた。
空気が一変する。
笑っていた者たちが一斉に口を閉じ、背筋を正した。
男が一歩、窓口へと歩み寄る。
「今の笑いは、誰に向けたものだ」
誰も答えない。
視線だけが泳ぐ。
「責任者を呼べ」
その一言で、場が走った。
ほどなくして現れた責任者に、男は視線を向ける。
「現場の判断で、捜査を拒否するよう指示しているのか」
「……いえ、そのような指示は――」
「では、なぜ勝手に判断する」
言葉が詰まる。
責任者の喉が、かすかに鳴った。
沈黙。
男は、ゆっくりと周囲を見渡した。
「……君の指導力が疑われるな」
そして、淡々と告げる。
「今、この場で笑った者、全員を罷免する」
ざわめきが爆ぜた。
「お待ちください!」「それは――」
懇願の声が上がるが、男は振り返らない。
そのまま、出口へと歩き出す。
責任者が慌てて追いすがった。
「お待ちください! 今、全員を罷免すれば業務に支障が――」
男は足を止めることなく言った。
「頼んでいるのではない。命令している」
短い沈黙。
「……それとも、君も荷物をまとめるか」
責任者は言葉を失い、立ち尽くした。
男はそのまま出口へ向かい、外で待機していた部下たちに声をかけた。
「この街で、女を襲いながら平然としている奴がいる」
足を止めることなく、低く言い放つ。
「そいつを捕まえて、俺の前に連れてこい」
部下の一人が問いかける。
「……生きたままで、よろしいでしょうか。それとも――」
男はわずかに目を細めた。
「生きたままだ」
一拍置き、続ける。
「きちんと罪を償わせる」
その声に、わずかな冷たさが混じる。
「……抵抗するなら、再起不能でも構わん。だが、喋る力だけは残しておけ」
部下たちは短く応じ、散っていった。
その後ろ姿を、ひとつの影が追っていた。
――あの女だった。
深くフードを被り、顔を隠したまま、男の背に向かって声をかける。
「……先ほどは、ありがとうございました」
男は振り返らない。
女は言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「このような顔ですので……ご迷惑をおかけしたくなく……顔を伏せたまま失礼いたします」
わずかな沈黙。
男は足を止めずに答えた。
「醜いか、美しいかなど関係ない」
淡々とした声だった。
「この街で法を犯したなら、誰であろうと捕まえる。それだけだ」
女は息を呑む。
男はさらに続けた。
「……どこに住んでいる」
「え……?」
「部下に見張らせる。報復を防ぐためだ」
女の目がわずかに見開かれる。
「そこまで……していただけるのですか。なぜ……」
男は答えなかった。
ただ、そのまま歩みを止めず、部下の一人に視線だけを向ける。
残された部下が一歩前に出る。
「こちらへ。詳しくお話をお聞かせください」
男の背中は、すでに遠ざかっていた。
乾いた音が、部屋に響いた。
「――何をしたんだ、この馬鹿息子が!」
男の拳が、容赦なく息子の頬を打ち抜く。
息子は床に崩れ落ちた。
「白昼堂々、女を襲うだと……? 公を愚弄するにも程がある!」
怒号が飛ぶ。
しかしその目に宿っていたのは、純粋な怒りだけではなかった。
焦りだった。
男は唇を噛み、奥歯を鳴らす。
(……この時期に、なぜだ)
脳裏に浮かぶのは、目前に迫った選挙だった。
ここまで積み上げてきた。
人脈も、金も、評判も。
あと一歩で手に入るはずだった。
――地位。
(すべて……手に入るはずだったのに)
息子の不祥事が表に出れば、すべてが崩れる。
男の拳が、再び振り上がる。
「お前のせいで、俺の人生が――」
「やめて!」
妻が間に入る。
だが、男はそれを払いのけた。
「触るな!」
息が荒い。
男は振り返り、控えていた部下たちを睨みつける。
「……あの女の被害届はどうなっている」
誰もすぐには答えない。
「金を使え。いくらでもいい。握り潰せ」
低く、押し殺した声だった。
そのとき、扉が叩かれる。
「失礼します――役所より報せが」
部屋の空気が張り詰める。
「……言え」
「すでに、捜査が開始されています」
沈黙。
男の肩が、わずかに震えた。
「……誰だ」
絞り出すような声。
「この件を担当しているのは、誰だ」
部下は一瞬ためらい、そして告げた。
その名を。
男の顔色が変わる。
「……あいつ、だと」
血も涙もない――
そう噂される、法の番人の名だった。
部屋の空気は、重く沈んでいた。
絶望に打ちひしがれる男の前で、部下の一人が口を開く。
「……一つ、方法があります」
男はゆっくりと顔を上げた。
「被害者の女と、直接お会いになるのです」
沈黙。
「被害届は……取り消せません。ですが、取り下げてもらうことは可能です」
男の目が、わずかに揺れる。
「金を積むのです。環境を整えれば……あのような身分の女なら、承諾する可能性はあります」
男はしばらく黙り込んだ。
やがて、低く言い放つ。
「……探せ」
その一言で、部下たちは動き出した。
――やがて、女の居場所は突き止められた。
質素な家の前。
男は足を止める。
(……あの男に知られていなければいいが)
胸の奥で、不安が蠢く。
それでも、扉へと歩み寄る。
だが――
そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
静かに、道を塞ぐように立っている。
「……どけ」
権力者は低く言う。
男はわずかに頭を下げた。
「申し訳ありません」
その声には感情がなかった。
「面会はできません。どうか、お引き取りください」
空気が張り詰める。
権力者の眉が動く。
「……誰の指示だ」
男は一瞬も迷わず答えた。
「上の者の命令です」
それ以上は語らない。
だが、その一言で十分だった。
(……やはり、か)
背筋に冷たいものが走る。
あの男は、すでに動いている。
姿は見せずとも、この場を支配していた。
権力者は、わずかに息を整えた。
そして、目の前の男――法の番人の部下に向き直る。
「……聞いてくれ」
声の調子が変わる。
先ほどまでの威圧ではない。
どこか抑えた、低い声だった。
「彼女を傷つけたのは……私の息子だ」
沈黙が落ちる。
部下の目が、わずかに揺れた。
「だからこそ、父親として責任は取る」
一歩、距離を詰める。
「損害の補填も、謝礼も……できる限りのことはするつもりだ」
言葉を選ぶように、続ける。
「だが、今は時期が悪い」
その一言に、重さが滲む。
「今、この時だけ……被害届を取り下げてもらいたい」
部下は何も答えない。
ただ、静かに立っている。
「……落ち着いた後でいい」
権力者は続けた。
「改めて被害届を出してもらい、その時にすべて償う」
その目には、焦りと――わずかな誠実さが混じっていた。
「だから、一度……彼女と話をさせてほしい」
沈黙。
風の音だけが、わずかに通り抜ける。
やがて、権力者は懐に手を入れた。
紙幣の束が、指の間に見える。
「……これは礼だ」
差し出す。
「君に迷惑はかけない」
空気が張り詰める。
その瞬間だった。
「――そこまでだ」
低く、よく通る声が割り込んだ。
時間が止まる。
部下が、わずかに姿勢を正す。
権力者はゆっくりと振り返る。
そこに立っていた。
――法の番人。
一歩、前に出る。
その視線は、すでにすべてを見通しているようだった。
法の番人は、静かに口を開いた。
「……俺の部下を買収するとは、いい度胸だな」
わずかに口元が歪む。
「それは、自分で罪を認めるのと同じだ」
権力者は、視線を逸らさなかった。
「……今の私にできる、精一杯のけじめだ」
その言葉に、法の番人は短く笑った。
「けじめ、か」
一歩、距離を詰める。
「やった本人が言うならまだ分かる」
視線が鋭くなる。
「父親に言われてもな」
沈黙。
権力者の喉が、わずかに動いた。
「……わかっている」
低く、絞り出す。
「息子がやったことだということは」
拳が、わずかに震える。
「だがあいつには……罪を償う度量すらない」
目を伏せる。
「だからこそ、代わりに背負うしかない」
風が、二人の間を抜ける。
「……部下を買収しようとしたことは、謝罪する」
ゆっくりと、頭を下げる。
「だから――彼女に会わせてほしい」
沈黙。
「今、この場だけでいい。目をつむってくれ」
顔を上げる。
その目には、必死さが滲んでいた。
「必ず、罪は償わせる」
一拍。
「息子とは縁を切る。……この手で牢に叩き込む」
言い切る。
「ここで誓約書を書いてもいい」
声が、わずかに震える。
「彼女にすべてを忘れろとは言わない」
それでも続ける。
「だが……やり直せるだけの金は出す」
沈黙が落ちる。
風が止まる。
すべてを聞き終えたあと――
法の番人は、何も言わなかった。
ただ、じっと権力者を見ていた。
法の番人は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「……あんたの覚悟はわかった」
わずかに視線を落とす。
「嘘もついていないようだ」
一拍。
「だからこそ――信じてやりたい、と言いたいところだが」
顔を上げる。
「……もう遅かったな」
そう言って、一枚の資料を差し出す。
権力者はそれを受け取り、目を走らせた。
その手が、止まる。
「……これは……」
紙には、名前が並んでいた。
一人ではない。
二人でもない。
いくつもの名前。
身分の低い者。
そして――名の知れた家の女の名もあった。
すべて、被害届。
「……そんな……」
声が漏れる。
「被害者は……一人じゃなかったのか……」
現実が、突きつけられる。
権力者の膝が崩れた。
その場に、力なく落ちる。
法の番人が見下ろす。
「……本当に、知らなかったのか」
静かな問いだった。
権力者は、かすれた声で答える。
「……知らなかった」
視線は、どこにも定まらない。
「……あいつは……まだやり直せると……思っていた……」
その言葉が、崩れていく。
未来が、音を立てて壊れていく。
法の番人は、ゆっくりと告げた。
「俺がやるのは、これ以上の被害者を出さないためだ」
一歩、距離を取る。
「……そして、これ以上、遺族を増やさないためでもある」
わずかに視線を逸らす。
「あんたら加害者側の、な」
沈黙。
「……悪いが、ここまでだ」
淡々とした声だった。
「――あんたの夢は、ここで終わりだ」
その言葉が、静かに突き刺さる。
そして、続けた。
「……彼女は言っていた」
一瞬だけ、あの女の姿がよぎる。
「傷ついた女を映像に収め、売っていた、と」
空気が凍る。
権力者の顔色が、さらに落ちる。
言葉が出ない。
やがて、肩が震え始めた。
そのまま、声を押し殺しながら――崩れ落ちる。
法の番人は、視線を落とさなかった。
「……息子は、どこにいる」
短い問い。
権力者は、震えながら答える。
「……自宅に……匿っている……」
沈黙。
法の番人は、何も言わず踵を返した。
そのまま、去っていく。
残されたのは、すべてを失った男だけだった。
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